亡き妻の人生を夫が作品に。映画『リング』貞子の母役を演じたモデル・雅子さんが遺したもの

亡き妻の人生を夫が作品に。映画『リング』貞子の母役を演じたモデル・雅子さんが遺したもの

 2015年1月29日の夜明け前、モデルの雅子さんが希少がんでこの世を去った──。享年50歳。映画『リング』の山村志津子役で知られ、20代では雑誌『an.an』、30代『クロワッサン』(ともにマガジンハウス)、40代では『家庭画報』(世界文化社)や『GLOW』(宝島社)などでモデルとして活躍。そんな雅子さんの半生を描いた映画『モデル 雅子 を追う旅』が現在、東京・アップリンク吉祥寺ほか、全国各地で順次公開されている。製作・監督は雅子さんの夫でTBSテレビで番組制作などに携わる大岡大介さん。「すべて自費で製作した」という大岡さんは、どんな思いでこの作品を世に送ろうと思ったのか。心の内を聞いた。



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■きっかけは妻の死「自分の知らない、いろんな時代の妻を知ろうと思った」



 雅子さんは1964年東京日本橋生まれ。1984年19歳でデビューし、生涯現役モデルとして活躍し続けた。映像ではテレビCM「セイコー ティセ」(1984年)を皮切りに、「日清ごんぶと」(1995年)などに出演。映画では『月の人/フィガロ・ストーリー』(1991年)、『リング』(1998年)では貞子の母・志津子を演じ、観る人の心に強い印象を残した。2014年には書籍『雅子 スタイル』(宝島社)を上梓。2015年、闘病の末にその魂は天に召された。



「雅子を亡くして初めて、雅子をもっと知りたいと思いました」(大岡大介さん/以下同)。大岡さんは入院していた病院から引き上げた雅子さんの荷物が詰め込まれた寝室のドアを開ける。「そのときなんの香りもしなくて。雅子の香りを思い出せなくなり、こんなにも覚えていられないものなのかと。ものすごい恐怖心が襲ってきたんです」



 二人が結婚したのは雅子さんが42歳の頃。「モデルとしての雅子に関して、僕が知らない時代の方が長いんです。僕が知らない雅子を知る人に会うことで、いろんな時代の彼女に逢えると思い、お話を聞きに行こうとした。それを私の姉に話したところ、“テレビの仕事をしているんだからそれを映像に撮れば”と言われて。夫としての妻への思いと、公に対して雅子を遺さなければならないという思いがここで一つになりました。その思いを、雅子が愛していた“映画”という存在で形にしようと考えました」。



 大岡さんは劇中で多くの人にインタビューを敢行する。写真家の安珠、モデル・女優の田村翔子、藤井かほり、俳優の高嶋政宏、映画監督の中田秀夫、モデルの石井たまよ、そして俳優で映画監督の竹中直人など多くの関係者たちがそれぞれ、雅子さんの思い出について語っている。



 映画製作の費用はすべて大岡さん自費。「私が妻を映画で表現する際、出資者などからとやかく口出しをされたくなかった。すべて自分のお金、自己責任で、僕だけが描ける雅子を“映画”に残そうとしました」



■どこまでも仕事に生きた妻、年を取れば取るほどに”輝いてみえた”



 大岡さんと雅子さんが初めて会ったのは2006年の3月。大岡さんはTBS映画事業部で洋画『バイオハザード』(2002年)などの共同出資事業、邦画『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』(2003年)などの制作事業に携わっていた。「仕事の関係でいろんな映画会社さんから試写会の招待状が届くんです。そんなある日、試写会で映画プロデューサーの吉田佳代さんに声をかけて頂きました。そのとき隣にいたのが雅子でした」



 翌週、六本木で行われたフランス映画祭で大岡さんは雅子さんと再会する。「最初の印象はとっつきにくそうな人。こちらが盛り上げてもスルーされてしまうような(笑)。ですがフランス映画祭の帰り道、僕が生まれた神戸の名産イカナゴという魚の釘煮について話したところ、東京生まれのはずの彼女も“知ってる”と。そこから意気投合して、いつの間にか気づけば隣にいる人に。そしてある日、雅子が言うんです。“何か言うことあるでしょ?”って。そこで僕はプロポーズを。雅子は“早くいいなさい。バカ”と笑ってましたね(笑)」



 そんな雅子さんは自身が年令を重ねていくことに関しても「経験値を積んできた」と考える女性だった。歳を取れば取るほど逆に自信が湧いて、輝いているようにも見えたという。これについて大岡さんは「高齢だろうが若かろうがかわいいものはかわいい、キレイなものはキレイと言える人でした。50近くになっても自分の足でモデルの仕事を取りに行っていましたし、肌はキレイに保っていましたが若作りをしている訳ではない。若さの定義が違ったんだと思います。それは“自信がありいつまでも好奇心が絶えないこと”。モデル人生のなかで何が“若さ”であるのか選び、選んだものを大事に持ち続けた。それが彼女の“若さ”の秘訣だったんだと思います」と分析する。



「劇中でライターの今井恵さんにインタビューをしているのですが、今井さんは雅子について、例え食事に誘われても気が乗らなければパンと断ることができる人とおっしゃっていました。雅子は人に引きずられない。周りに安易に迎合せず、自分のなかで自分の基準をしっかり持っている女性でもあった。そこは僕の知る雅子と変わらないんだと。エピソードを聞いて、その雅子に夫として見られていたことがとても誇らしく思えましたね」



 料理も得意だった。忘れられない味は豆ひじきの煮物と冬場によく出ていたポトフ。「雅子が亡くなった後その味を再現しようと奮闘しました。豆ひじきはなんとか近い味になったのですが、ポトフはどうしても西洋風おでんのようになってしまう(笑)。何かが違うのでしょうね。――やはり味や香りは思い出に直結しますね」



■一番悔しいのは「この映画を、今の僕の姿を、妻に見てもらえないこと」



 劇中では闘病中の雅子さんの姿も映し出されている。「映像に残ってない点で言うと、ある日病院から外出許可が出たんです。その頃の雅子はすでに脚が動かなくなっていて…。小籠包の美味しいお店へ行ったのですが、駐車場からお店まで坂道になっていたため、私が雅子をおぶって。途中、休みながら(笑)。すると雅子が私の頭を“よしよし”としてくれて。頑張ったねと褒めてくれた。汗だくになりながらもそれが楽しくて、小籠包も美味しかったしいい思い出です」



 そして2015年、雅子さんは帰らぬ人となる。大岡さんは雅子さんの親しい人に形見分けをすることを決めた。大切な人の形見を自分の元に残しておきたい気持ちは湧かなかったのか。「服も靴も雑貨も、使われて初めて生きます。それが死蔵されていることが我慢できませんでした。本来の使われ方=着用する人の生活に溶け込んでほしかったんです。遺品を置いておいても雅子が蘇るわけではない。知人が雅子の服を着て訪れ“雅子だよ”と言ってくれる、皆の中に雅子が生きている。それは僕にとっても嬉しいことだったんです」



 そんな大岡さんにとって最も悔しいのは、この映画を雅子さんに見せられないこと。「お互い映画が好きで、私は映画監督になって一本の映画を仕上げた。その姿を一番見てほしいのは雅子。ですが雅子が亡くならければ僕はこの映画を作ることはなかった。そこは永遠にぶつかり続ける矛盾として僕のなかに残り続けるでしょう」



 製作していた4年半を「雅子と伴走してきた4年半」と語る大岡さん。「この映画はモデルを描いた映画でありながら、その先にあるのは雅子という一人の女性・人間。老若男女それぞれの受け取り方ができ、そして自分ならどう生きようかと考えてもらえるきっかけになるはず」とメッセージをくれた。モデルとしての活躍、闘病、死、そして遺された人々――。人としてブレない強い生き方を示してくれた雅子さんの人生。あなたはそこに、自分の人生を見るかも知れない。



(取材・文/衣輪晋一)
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