もの言うクリエイター、なぜタブー視? “反権力”とエンタメの親和性

もの言うクリエイター、なぜタブー視? “反権力”とエンタメの親和性

 検察官の定年延長を可能にする検察庁法改正案について、Twitterでは「#検察庁法改正案に抗議します」というタグがトレンド入り。SNS上で起きたムーブメントとして様々なメディアで報道がなされた。注目したいのが、普段は政治がらみの発言をしない芸能人たちまでもが声を上げたこと。だがその意見に対するリプライでは否定的な声があがり、結果的に投稿を削除するケースも。かつてエンタメは“権力への抗議”と隣り合わせだった。芸能人やクリエイターが思考を提示することは、どのようにタブー視されていったのか。



【写真】ツイート削除のきゃりーぱみゅばみゅ、ツインテ&ミニスカセーラー姿で挑発ベロ出しショット



■Twitterデモで広がるムーブメント、投稿の裏に見えた「遠慮」や「怯え」



 検察官の定年を65歳に引き上げる法改正案に反対の声が上がり、Twitterでは「#検察庁法改正案に抗議します」のツイート数が5月8日~11日で500万件を超えた。これには多くの芸能人やクリエイターも声を上げた。きゃりーぱみゅぱみゅ、井浦新、小泉今日子、大久保佳代子、浅野忠信、高田延彦、宮本亜門(劇作家)、村山由佳(作家)、俵万智(歌人)、松本隆(作詞家)、金子修介(映画監督)などだ。



 過去にも有事に際に“権力に対する抗議”が起こることはあった。東日本大震災後の反原発デモ(2012年)や特定秘密保護法に反対するSEALDsらのデモ(2013年)が代表例だ。今回はコロナ禍における緊急事態宣言や休校措置など、SNS上で政治判断が注目され続けていたこともあり、普段は政治について発言しない芸能人たちでも発信しやすい土壌はあったと言える。



 だがそのリプライでは、「政治的な発言をしてほしくなかった」「内容、本当にわかっているの?」という、否定や蔑みのコメントも。このように芸能人が政治について意見を述べると世間はざわつきやすく、タブー視されていると言っても過言ではない。実際、「政治に詳しくないけど」「あまり政治の話は言いたくないけど」など枕詞がつく場合もあり、「遠慮」や「怯え」を感じさせるものも見られた。



■「権力から勝ち取ること」を渇望した60~70年代のエンタメ諸作品



 そもそもエンタメは、権力への抗議と隣り合わせだった。まず1950年代のアメリカへ目を向け、歴史を駆け足で説明していきたい。当時、共和党上院議員だったジョセフ・マッカーシーは、共産党員らへの攻撃的避難行動を敢行。俗に言う「赤狩り(レッドパージ)」が始まった。



 これで大打撃を受けたのがハリウッドだ。「これでは民衆は権力の言いなりになる」。多くの人が抵抗し、チャールズ・チャップリンのようにハリウッドを去る映画人も多かった。音楽シーンでも文化的・政治的主張を伴う社会現象「サマー・オブ・ラブ」が起こる。この「ヒッピー文化」とロックで平和を説く流れはジョン・レノン、ジミヘンらが登場した伝説のイベント「ウッドストック・フェスティバル」へもつながった。



 日本の多くのクリエイターたちもその影響下にあった。創作においても「左翼にあらずんば映画人にあらず」という言葉が叫ばれ、左派的な思想がないと新しいものをつくれないという風潮のもと作品が生まれていった。「その事例として、まずは宮崎駿監督、故・高畑勲監督らのアニメ『太陽の王子ホルスの大冒険』が挙げられます」と話すのはメディア研究家の衣輪晋一氏。



 宮崎・高畑は東映動画の労組活動に熱心だった。当時のアニメ業界は作品の方向づけやあり方を、演出部・動画部だけで行っていた。だが労組結成により、皆で議論できる環境に。『ホルス』は労組活動の経験を反映してか、仲間との協力のほか、仲間の裏切り、その裏切りは絶対悪ではないと続き、ならば何を信じて何と戦うべきか……そんな物語が紡がれた。



 次に映画界。松竹ヌーベルヴァーグ、「世界のオーシマ」こと故・大島渚監督だ。とくに前期の大島渚は『愛と希望の街』『夏の妹』など観念的、政治的な作品が多い。大島は「革命」を夢見ながら、(保守的な)日本の“美”にも惹かれており、そのアンビバレンツで他とは一線を画す作品を多く残した。



 吉本隆明ら知識人の書籍が好んで読まれていたのもこの時期だ。ゆえに左派は非常に知的な人たちのようにも見てとれた。これが没落した理由を衣輪氏は「今でも見られる流行崩壊の流れと同じ現象。一部の優秀な人たちが盛り上がっているところへ大勢が集まる。そのすべてが優秀ではないため、徐々に腐敗して優秀な人が離れ、後に焼け野原が残る。左派もこの“流行崩壊の流れ”が起こり、衰退したとの見方も出来る」と分析する。



■「政治発言」をするのも自由なら、それに「否」を唱えるのも自由



 知識人が距離を置き始めたことが左派衰退を早めた。「例えば作家の故・中上健次さんも自作品で、『革命後に社会が腐敗したらまた革命を起こしたいなど、何度も起こさなければいけない革命なら最初からやらなければいい』といった答えを導き出しています。ちなみに「革命」が現実から“ロマン”となった当時の社会風俗については島田雅彦さんの小説『優しいサヨクのための嬉遊曲』が詳しい。“サヨク”のカタカナ表記も当時の風俗を非常によく表しています」(衣輪氏)。



 そして政治的な時代が終りを迎え、1980年代にポストモダンが隆盛。「政治的発言」をすることが「タブー視」というよりは「時代遅れ」「格好悪い」と思われる時代に突入する。



 芸能人であればその影響は甚大だ。ポストモダンは“主義者”を否定するカウンターカルチャーでもあったためノンポリとの相性も◎。素人=“主義者ではない”を売りにしたとんねるずやおニャン子クラブが一世を風靡した時代でもあった。



「この反動で1990年代に1960~70年代の“再構築”が起こります。その一つが庵野秀明監督のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』。集団主義(ネルフ)と個人主義(ゼーレ)の争いでネルフは敗北。ただし残ったのはゼーレという“主義者”の“集団”でもなく、碇シンジという単なる“個”でした。これは全体主義を批判する左派思想のパロディ化で、このセンスがカルチャーに浸透、フォーマット化されます。2000年代のSMAP『世界に一つだけの花』大ヒットもこの流れのなかにあるでしょう。ただし「政治的発言」はまだ“恥ずかしい”とされる時代が続きます」(同氏)



 衰退、パロディ化され息を潜めていた「全体主義の否定」「権力への抗議」だったが、息を吹き返したのは2010年代。SNSの発達で、その“リアル”を取り戻したのだ。SNSではどこにいても連携を取れる。これにより見えなかったマイノリティーたちが声を上げやすくなった。政治に対して市民の一人ひとりが意見する。それがナマの声として多くの人の目に留まる。とても大事で当たり前の状況にようやく戻ってきたように思える。



 だが今回の事象を見ると、芸能人・クリエイターらの「政治的発言」は今もタブー視されたまま。衣輪氏は歴史や背景を振り返りながら、こう分析する。



「いまだに「政治発言」に「リアル」を感じず、「恥ずかしい」と思う人がいることもありますが、今は、ガセネタも多いネット言説において、これに芸能人たちが“利用”されていないか訝(いぶか)しむユーザーが多いのです。タブー視する人を「ネトウヨ」と蔑む人もいますが、実は『報道内容はどこまで真実か、その背景は?』と情報を精査する冷静な人も多い。そもそも政治に「否」を唱えるのも自由なら「その意見はどうか」と懐疑的になるのも自由。発言する以上、批判や議論は最初から覚悟しておかなければならない。ただ、もとよりクリエイターは、大島渚監督のように思想を作品に織り込める。「言葉」は齟齬が生じやすいため「作品」に込めるのも一つの手では?」(同氏)



 影響力のある著名人であるからこそ「発信に責任を持つ」「情報の取捨選択の目を持つ」ことがより一層大切に。今こそ冷静な「議論」をし、「何を信じて何と戦うか」を熟考する……そんな時代が訪れているのではないか。

(文/西島亨)
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