寺林晁さん死去 享年77 中森明菜の“育ての親”として知られる

寺林晁さん死去 享年77 中森明菜の“育ての親”として知られる

 数多くの音楽レーベルの代表を歴任した寺林晁さんが28日午後1時13分、肺炎のため死去した。77歳だった。レーベル事業本部アドバイザーを務めたエイベックス・エンタテインメントが29日までに発表した。家族葬の後、お別れ会を行う。



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 同社は「弊社レーベル事業本部アドバイザー 寺林 晁儀 が8月半ばより入院加療中の処完治に向けて治療を続けてまいりましたが 去る令和4年11月28日午後1時13分永眠いたしました 享年77歳」と報告。「ここに生前に賜りましたご厚誼に深謝し謹んでご通知申し上げます つきましては通夜並びに葬儀告別式は故人の遺志に基づき御家族のみで下記の通り執り行われます」と伝えた。



 寺林さんは、中森明菜の育ての親として知られ、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)で、デビュー前から8年間、明菜の制作宣伝を統括してきた。



 1972年に洋楽系のイベント制作会社・ウドー音楽事務所に入社し、79年にワーナー・パイオニアに転職した。中森のほか矢沢永吉をはじめ、CHAGE&ASKA、少年隊、森高千里などのデビューにも尽力。87年には日本レコード協会が創設した『日本ゴールディスク大賞』で、寺林さんが担当した中森とマドンナが邦洋楽の最優秀賞を独占し、さらに少年隊が最優秀新人賞を受賞するなど上位3冠を独占して業界の大きな話題になった。



 94年より、日本フォノグラムの邦楽宣伝部長(制作宣伝担当)。96年にマーキュリーミュージックエンタテインメント(日本フォノグラムより改名/現ユニバーサルミュージック)取締役(邦楽担当)。その後、常務取締役、専務取締役を歴任した。



 2000年にユニバーサルミュージック キティMME執行役員会長。Def Jam Japanエグゼクティブプロデューサーなどを兼務。02年より、ユニバーサルミュージックの執行役員マーケティングエグゼクティブを務めた。



 中森に関しては、独立後にワーナーを離れてからも関係が続き、寺林さんが日本フォノグラムの邦楽宣伝部長に就任後も「相談に乗り続けていた」と言われる。中森は、02年に寺林さんが執行役員を務めていたユニバーサルミュージックと契約し、寺林さんのプロデュースでカバーアルバム『歌姫』を発売。同年、14年ぶりに『紅白歌合戦』への再出場を遂げ「飾りじゃないのよ涙は」を熱唱した。



 その一方で、寺林さんは松田聖子のソニー・ミュージックエンタテインメントからユニバーサルミュージックへの移籍にも動き、その移籍第一弾となった「あなたに逢いたくて~Missing You~」は、ミリオンヒットとなり松田の代表曲にもなった。



 寺林さんは2014年にユニバーサルを退社。中森も体調不良から本格的に復帰したものの関係者によると「明菜は寺林さんのプロデュースを希望していた」と言われる。寺林さんはエイベックス・エンタテインメント・レーベル事業部のアドバイザーに就任し、最近は「明菜をもう一度手掛けたい」と意気込んでいた。
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