CHEMISTRY、“ASAYAN=モーニング娘。”強烈インパクト乗り越え「男性R&Bデュオ」ヒットへ【伝説の音楽プロデューサー秘話:前編】

CHEMISTRY、“ASAYAN=モーニング娘。”強烈インパクト乗り越え「男性R&Bデュオ」ヒットへ【伝説の音楽プロデューサー秘話:前編】

 稀代の音楽プロデューサーであり「伝説のA&R」として知られ、48歳の若さでこの世を去った吉田敬さん。彼の近くでA&Rとしての姿を見ていた黒岩利之氏が、吉田さんの人物像や仕事術に迫るノンフィクション『「桜」の追憶 伝説のA&R 吉田敬・伝』を刊行した。同書では、TUBE、コブクロ、絢香、Superfly、CHEMISTRY、the brilliant greenら、日本を代表するJ-POPアーティストのミリオンヒットを連発。いちからその才能を見出し、数多くのアーティストをトップまで成長させた吉田さんについて、黒岩氏が見聞きしたさまざまなエピソードがまとめられている。同書から、『ASAYAN』(95年~02年、テレビ東京系)からCHEMISTRYが誕生した背景についてつづった内容を、一部抜粋して紹介する。



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■「どのレーベルも見向きもしなかった」



 大堀(当時デフスターレコーズ運営における吉田のサポート役、現トイズファクトリー専務執行役員の大堀正典氏)はレーベル創立当初、社内のあるプロジェクトのレーベル窓口となる。テレビ東京系でオンエアされていたオーディション番組『ASAYAN』で新たに始める男子ボーカリストオーディションである。



 『ASAYAN』は、テレビ東京と吉本興業と電通で制作された1990年代を代表するオーディション番組である。すでに、モーニング娘。を世に出した番組として人気は定着していたが、男性ボーカリストオーディションが始まった当初は視聴者からの反応も乏しく、テコ入れが必要だった。



 当時番組担当だった電通の吉崎圭一は、ソニーミュージックの一志順夫に相談を持ちかける。そこで、二人で出した結論は「オーディションを盛り上げるにはプロデューサーの存在が必要不可欠。小室哲哉、つんく(現:つんく♂)に匹敵するプロデューサーが必要」だった。



 一志は、洋楽時代に親交があり、ラジオでパーソナリティーを務めるなど表に出る仕事もこなせるプロデューサーとして松尾潔に注目。松尾が手掛ける平井堅が見事男性R&Bシンガーとしてのブランディングを成功させた事例をあげながら、番組プロデューサーを説得した。



 一志は各レーベルの会議に出席し、企画を熱心に説明した。しかしどこのレーベルも“ASAYAN=モーニング娘。”の印象が強烈だったので、“男版モーニング娘。”のような男性アイドルを手掛けるのではないかと解釈され、反応が薄かったという。その中で、唯一手を挙げるレーベルが吉田率いるデフスターレコーズだった。



 「同期の吉田だけが手を挙げてくれました」(一志)



 吉田は、その窓口を大堀に託したのである。



 「どのレーベルも見向きもしなかった時代から、レーベルの窓口として(『ASAYAN』の)オーディションに参加した。松尾潔さんがプロデューサーとして参加してから流れが変わった」(大堀)



 松尾潔が掲げたコンセプトは男性R&Bデュオ。平井堅が男性ソロとして成功した次はデュオであるとオーディションの方向性を明確化していった。番組の中で、参加メンバーの個性や背景が明らかになってくるたびに、視聴者からの反響が目に見えてわかるようになってきた。そして、川畑要・堂珍嘉邦が選ばれ、松尾潔から「CHEMISTRY」と名付けられる。



 ここで、CHEMISTRYの二人にも、吉田について話を聞いてみよう。デフスターの新しさ、若さ、勢いをまさに投影、象徴したアーティストがCHEMISTRYだったと思う。



 「当時のことはあまり覚えてないかもしれないですね。怒涛すぎて、何が何だか…っていう印象の方が強いですね」



 川畑要は僕にそうつぶやいた。



 中低音のふくよかさが特徴の川畑要と抜けのいい高音が魅力の堂珍嘉邦。声の特性が違う二人の歌声とハーモニーが結びつき、まさに化学反応(Chemistry)を起こす。彼らの衝撃的な登場は「楽器を持たないR&Bデュオ」という今までありそうでなかったジャンルを切り開いた。デビュー20周年を超えた今も、YouTubeチャンネル「THE FIRST TAKE」にて公開された一発撮りライブパフォーマンス映像は1000万回再生を記録(2023年6月時点)するなど、彼らの歌声は現在進行形で多くの人の心を震わせている。



 「僕らが参加したのは大阪で行われた最初のオーディション(1999年8月)。それから半年以上番組から連絡が来なかったんですよね。僕は仕事を辞めてオーディションに参加していたので、再度建築現場の仕事に戻ってアルバイトをしながら、毎週日曜日の放送を観ていました。でも、オーディションのライバルたちはどんどん増えていくばかりで。いつ決まるんだろうと思いながら過ごしていましたね」(川畑)



 なかなか進まないオーディションスケジュール。そんな中、堂珍に最初に寄り添ってくれたのが、『ASAYAN』のスタッフだったという。



 「オーディション中は番組の方がマネージャーさんの代わりをしてくださっていました。僕は番組のスタッフさんたちにまずは愛着がわいていました」(堂珍)



 オーディションが進むにつれて、ソニーミュージックのスタッフも『ASAYAN』のスタッフに混ざり、オーディション会場やロケ現場を訪れるようになっていく。



 「松尾潔さんがプロデューサーとして参加することが決まった頃、デビューするレーベルがソニーミュージックだということが分かって。さらにソニーミュージックの人たちが審査員だったことも『ASAYAN』のスタッフに後から聞いてびっくりしました」(川畑)



 「いろいろなスタッフの人たちの存在を意識し始めたのは、オーディションメンバーが最後の5人くらいになったあたりからですかね。その中で一番目立っていたのが松尾さんと一志さんでした」(堂珍)



 吉田とのファーストコンタクトは、彼らがオーディションを勝ち抜き、CHEMISTRYとしてメジャーデビューが決まった後だった。



 「無愛想というか、“業界の人ってこういう感じなんだろうな”というイメージがすごく強かったです」(川畑)



 「当時マネージメントのヘッドだった西岡さん(現:ニューカム 西岡明芳)は、物腰が柔らかくギャグを飛ばして場をなごませるような印象でしたけど、敬さんは、色のついた眼鏡をかけていて、真面目というか、ギャグを言うような雰囲気ではなかったですね」(堂珍)



 テレビ番組とのタイアップで数々のヒット曲を生んできた吉田は、その“光と影”をよく知っていた。だからこそ、テレビのオーディション番組出身ですでに世間から大きな注目を集めていたCHEMISTRYの様子を慎重に見極めていたのだと思う。



 そんな中、まずは、兒玉がJ-WAVEで突破口を開く。夕方の看板番組『GROOVE LINE』(DJ:ピストン西沢)にデビュー前のCHEMISTRYをブッキング。当時HMV渋谷で公開収録を行っていた同番組に多数のファンが駆けつけ、ラジオ関係者に相当なインパクトを残した。



 人気だけでなく楽曲のクオリティーも評価され、平井堅の「楽園」をバックアップした同局のお墨付きを得たことは今後のアーティストプロモーションに弾みをつけた。



 また、同時に名古屋のエリアプロモーターに転勤となっていた同期の山口がZIP-FMでのオンエアの確約を取りつけていた。第2FM系列であるJ-WAVEやZIP-FMがオンエアしたことで、全国FMでのCHEMISTRY楽曲の大量オンエアにつながっていった。



 オーディションからの流れで大堀がCHEMISTRYの初代A&Rをつとめ、デビューシングル「PIECES OF A DREAM」が発売し、スマッシュヒットを飾ると、社内の雲行きが一変した。



 「同期の二人の間で密約があったんじゃないかと揶揄されました。僕は公平に(各レーベルに)案内したのに聞く耳をもたなかった。売れてはじめて、そんな話聞いてないと文句をつけてくるのです。これには閉口しましたよ」(一志)



 CHEMISTRYの快進撃で、レーベルとしてのデフスターはさらに注目の的となった。



■著者・黒岩利之プロフィール

ソニーミュージック、ワーナーミュージック・ジャパンの宣伝畑を歩み、老舗音楽事務所スマイルカンパニーの代表を務めた後、独立。2022年に合同会社デフムーンを設立。宣伝コンサルタント業を営みながら、新人アーティストの発掘・プロデュースを行う。『「桜」の追憶』では、音楽業界で“伝説のA&R”と称された音楽プロデューサーである故・吉田敬さんの人物像や仕事術についてつづった。



■吉田敬プロフィール

1962年5月13日生まれ。85年、慶応義塾大学卒業後CBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社。販促・宣伝畑を歩み、タイアップ担当として数々のドラマ主題歌や番組のテーマソングを獲得し、頭角を現す。97年に「Tプロジェクト」を立ち上げTUBEのミリオンヒットに貢献。その後、the brilliant greenなどをトップアーティストに育て上げ、2000年38歳で分社化して誕生したデフスターレコーズの代表取締役に就任、CHEMISTRYをブレイクさせた後、03年に外資系レコード会社ワーナーミュージック・ジャパンに電撃移籍し、代表取締役社長の職に就いた。コブクロ、絢香、Superflyを次々とブレイクさせ、業績を飛躍的に伸長させる。自らが先頭にたってヒットプロジェクトを牽引する伝説のA&Rマンというのが、音楽業界内に認知されている彼のプロフィールだ。そして2010年10月7日、48歳という若さでこの世を去った。
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